今の所遺伝子を伝え続ける可能性を持っているのは人類である。人類が生命を代表してその運命を委ねられている。そう考えると人類以外の生命は人類の役割に貢献することが彼等の役割となる。
牛やその他の食用動物はその肉や乳を人類に供給するために存在し、植物や鉱物も人類の発展、引いては生命の存続のために存在する。
これはまさに人類の奢り高ぶった危険な考えかもしれない。
しかしこれまで述べて来たことが全生命の目的であるならば避けては通れない考えでもあると思う。
この世の中に「大いなる存在」または「宇宙の意思」などというものが存在するのかどうかは知らないが、森羅万象様々なものを見ていく時、多くのものが人類の発展に収斂(しゅうれん)しているように思えてくる。
単純な例で言うと、人類が使用する燃料として石炭が用意され、さらに発展した段階で石油を採掘出来るようになっている。木材にしても人類が利用するのに非常に適しているし、竹などはどうぞ使って下さいと待っているようにも見えて来る。
果物もそうだ。多くの果物が人にとって魅力的だ。バナナなどはその最たるものだろう。全く果肉に触れずに食べることが出来、細長くて人の口のサイズにあわせたように食べやすく出来ている。しかも栄養も豊富だ。
「大いなる存在」が人類を「生命の代表」として選んだとして、彼等が目的を達成する日まで生かさなくてはならない。その栄養源として大量の食料を用意することも出来るだろうがそれではやがて腐ってしまう。それよりも常に新鮮なものを得られるように「生き物」として用意したのだ。じつによく出来たシステムだ。人類が食べ尽くす前に新たに新鮮なものが生み出されて行く。人類がよほど無茶をしない限り食料には困らないはずだ。
というような妄想を抱きたくなるくらい人類は自然をうまく利用して来た。
だがこのような妄想が本当だとしたら、もし人類が「生命の代表としての役割」を果たせないと判断された時には、その「大いなる存在」が人類に見切りをつけた時には、用の無くなった人類は一瞬のうちに滅ぼされるのかも知れない。所謂「最後の審判」なのかも。
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